ある日のことである。一人の高校生が私を訪ねて来た。そして、私に、こんな質問をした。
から始まる高校生と医者のやり取り。
高校生は学校でクラス委員をしているが、みんなまとまりがない。まとめるにはどうしたらいいのか。と医者に相談する。なんで、学校の先生じゃないんだ?ま、いいか。
クラスでまとまりがない状況。ちょっと目線を外に向けた時、まとまりがないのはクラスだけじゃなく、大人の世界だって、社会全体だってそうだという話になる。そして、その原因は
さまざまな点で、これまであった権威が失われたこと、そこに問題があるのではないでしょうか。という仮説から、権威だの権力だのという話が広がっていく。とーっても面白い。
この本の副題は「いうことを聞かせる原理・きく原理」となっている。
個人が生きていく上での姿勢、そしてそれらが折り重なって出来上がる社会がみえる。
「あー、あの人の言っていたことはこれか」と思うシーンもしばしば。僕自身は権威も権力もあんまり気にしていない人間なんだなぁとか、根本的には権威を感じてほしがる人や権力を振りかざす人間をうさんくさいと思っている自分と、でもたまーにそれを使ってしまいたくなる自分もいて、その理由がわかりました。あーあ、知っちゃった…って感じ。まぁ、そんな程度のことしか思い浮かばない。
この本は1974年初版のもの。40年も前の本。そんなことみじんも感じさせない本。読み終わって、とても重たい気持ちになれるのは、根本的に40年前も今も、社会の構造も人も変わってないんだなぁってことが感じられたから。もっと言えば、人類が集団をつくり営むことが生まれてから、根本は変わっていないんじゃないか…とすら感じられて…。時は流れ、人も変わり、環境も変わり、、、、しかし、それらが変わっているだけで、根本はまったく変わっていないのだな、と。その構造の中で、クルックルックルックルッ、回っているだけなのか?という。それが、いいのか悪いのかもよくわからん。。。
もし、それが世の常なんだとすれば、自分が学校教育で子供たちに何をどう教えていくのがいいのか、とっても複雑で考えさせられる部分がでてくるなぁ。悩む、悩む。
「まとまる」ことと「調和する」ことの違いが、議論が展開されていく中で明らかになってくるんだけど、北星余市で展開されているクラス集団作り、学校集団作りというのは、「調和」なんだな…と思えたな。過程の中で、ときに権力を振りかざして「まとまろう」としているように見える部分があるけれど。
うーん、5年後、また読んでみよう〜。